年商16億企業グループの会長として圧倒的な存在感を放つ小澤辰矢さんの経歴を徹底解剖していきます。
令和の虎やREAL VALUEに出演する成功者としての姿からは想像もつかない壮絶な過去や、「中卒」の真の理由をご存知でしょうか?

生後半年の両親蒸発や、義父からの不適切な養育、極貧の幼少期……。そこから年商16億円企業を築き上げた軌跡は、まさに逆転人生そのものです。
この記事では小澤辰矢さんの経歴について、壮絶な生い立ちから現在の成功をどのようにつかんでいったかをまとめてご紹介します。
小澤辰矢のwiki経歴
令和の虎やREAL VALUEにも出演した小澤辰矢さんは、年商16億円を突破した企業の会長であり、水を通すコンクリート「ドットコン」の開発者として一躍有名になった人物です。
基本プロフィール
小澤辰矢さんは、壮絶な逆境を乗り越え、中卒から一代で建設業界のトップに登りつめた、まさに「令和」を代表する経営者です。
| 氏名 | 小澤 辰矢(おざわ たつや) |
| 生年月日 | 1982年11月4日 |
| 年齢(2025年時点) | 43歳 |
| 出身地 | 静岡県富士宮市 |
| 最終学歴 | 中卒 (静岡理工科大学星稜高等学校中退) |
| 事業規模 | グループ全体で年商16億円突破 |
| 主な実績 | ・ポンプ車保有台数都内ナンバーワン ・特許製品「ドットコン」開発 (グッドデザイン賞2年連続受賞) |
1982年に静岡県富士宮市で生まれ、15歳で単身上京。
24歳(2007年3月)の時に借金をしてコンクリートポンプ車1台から小澤総業株式会社を創業したのがキャリアの始まりでした。
小澤さんの圧倒的な行動力と技術力により、グループ企業は現在、年商16億円規模へと急成長しています。

さらに小澤さんは、水を通すコンクリート「ドットコン」の開発者としての顔も持ち合わせているのです。
彼の最終的な目標は、この成功を基盤に、自身の過去に由来する壮大な夢「日本一の児童養護施設」を設立すること。
その情熱が、彼の尽きない挑戦の原動力となっていますよ。
学歴が中卒の理由
小澤辰矢さんが最終学歴「中卒」となった背景には、極度の貧困体験が深く関わっています。
高校中退となった原因は主に2つ。
- 非行に走り学校での勉強に意義を見出せなかった
- 15歳で出会った25歳の東京の女性を追いかけたかった
という理由ががありました。
小澤辰矢さんは小学校高学年で母子家庭となり深刻な貧困に直面します。
母親は借金を重ね、学校にまで取り立てが来たこともあったとYouTube動画「【VOL.4】中卒40歳・年商12億円経営者の1年間密着ドキュメント」の中で回想しています。
貧しい生活を送っていた小澤さんは、遊ぶお金を捻出するため、早くから非行に走りエスカレートしていきました。
| 小学校時代 | 空き巣を覚える |
| 中学校時代 | 置き引きを覚える |
| 高校時代 | カツアゲを覚える |
小澤さんは「どうにかして自分の遊ぶ分を作ったろうと思って」という思いからグレていったと語っています。
静岡県内の私立高校に入学したものの、勉強に意義を見出せず、彼の学校生活は異例そのものでした。
小澤さんはパチンコ店で「モーニング」を済ませ、自宅から2時間かけて歩いて昼過ぎに遅刻して登校する毎日を送っていたそうです。

そんな中、15歳で出会った25歳の東京の女性を追いかけたいという衝動が、中退の最大の決め手となりました。
小澤さんは高校を1年足らずで退学し、彼女に会えないまま東京で2〜3ヶ月の無職生活を送ることになります。
小澤さんは当時、中卒でも「ドカ(肉体労働)は賞金(ボーナス)がいい」から仕事はあると考え、学歴にコンプレックスは抱いていませんでした。
しかし、現在、事業家として大企業を目指す中で、大学教授などアカデミックな人々との交流が増え、自身の中卒という経歴を後悔する時もあると打ち明けています。
小澤辰矢の壮絶な生い立ち
生後半年で両親に蒸発され、不適切な養育と貧困のなか幼少期を過ごした小澤辰矢さん。
彼は事業で年商16億円を達成するも、真の成功はお金ではないと気づき、自身の壮絶な原体験から日本一の児童養護施設建設を最終目標として掲げています。
生後6か月で両親が蒸発
小澤辰矢さんの人生は、生後わずか半年で両親が同時に蒸発するという、あまりにも壮絶な運命から始まりました。
彼は1982年に静岡県富士宮市で旧姓の小林として生を受けますが、生後6か月の時にネグレクト状態となり、母方(小澤家)の祖母に発見され、引き取られることになります。
父方と母方、それぞれの家はまったく異なる環境の家庭でした。

小澤家への引き取りが決まった背景には、両家の間で小澤さんを「取り合いになった」という事実が絡んでいたといいます。
最終的に小澤家に引き取られた小澤辰矢さんは、幼心にも家の殺伐とした空気を読んで気を使っていたと回想しています。
小澤さんは、もし裕福な小林家で育っていたらどうなっていただろうかと、人生の「もしも」について考えることもあると打ち明けています。
義父からの不適切な養育
小澤辰矢さんが小学校低学年時代(小2〜小3頃)は、母親の再婚相手と異父兄弟(妹と弟)との5人家族での生活がスタートします。
ですが、この時期は義父からの不適切な養育に苦しむ極めて過酷なサバイバル環境でした。
義父は働きもせず、家庭は母親がゴルフキャディとして稼ぐ収入のみで成り立っており、小澤辰矢さんは幼心に家の殺伐とした空気を読んで気を使う生活を送っていました。
| 不適切な養育 | 義父から不適切な養育を受けていた。服も着ない状態で外に閉め出された断片的な記憶もある。 |
| 義父の嫌がらせへの対処 | 冬場でもボイラーが止められ冷水シャワーを浴びる。弟妹が使った後の残りの湯を風呂桶に貯めて体を洗う「技」を身につけた。 |
| 精神的な苦痛 | 当時「消えてしまいたい」と常に考えていた。 |
この辛い生活は1年から2年ほど続いた後、母親が義父と離婚し、小澤辰矢さんだけを連れて団地へ転居したことで終焉を迎えます。
非行に走った小中時代
小澤辰矢さんが非行に走った背景は、単なる反抗心ではなく、生い立ちに深く根差した極度の貧困と深い孤独に起因します。
小学校高学年で母親が2度目の離婚を経て母子家庭となったことで生活が困窮し、金銭的な欠乏を埋める衝動に駆られました。
彼はこの頃、「お金がないからどうにかして自分なりの遊ぶ分を作ったろう」という強い思いから、社会の規範を外れた行動を取り始めます。
当時の家庭状況は、彼の精神に大きな影響を与えました。
| 非行の根源となった要素 | 状況とエピソード |
| 極度の貧困 | 母親の借金(ゴルフキャディの収入では賄えず)により、学校にまで取り立てが来たことがある。 |
| 精神的孤独 | 団地の部屋で、夜遅く帰宅しない母親を心配し、車のドアが閉まる音を聞いては待っていた。 |
この金銭的な欠乏と精神的な孤独が重なった結果、彼は少年期から犯罪行為に手を染めていきました。
もし闇金融の仕事などで「ちゃんといっぱい金をもらえていたら」、悪い道から抜け出せなかったかもしれないとYouTubeチャンネル「街録ch」のインタビューで小澤辰矢さんは語っています。
お金への強烈な執着は、この小中時代の壮絶な経験によって植え付けられたと言ってもいいでしょう。
しかしこの逆境こそが、現在の事業成功、そして最終目標である「日本一の児童養護施設」設立という道筋を決定づける揺るぎない原動力となったのです。
中卒から令和の虎社長になるまで
高校中退後に働いたガソリンスタンドでの驚異的な売上や闇金融での経験を経て、小澤辰矢さんは天職となるコンクリート圧送工に出会いました。
24歳で独立し、年商16億円企業へと急成長させた「断らない」経営哲学と、世界を見据えた発明家としての現在地。
その原点となった激動のキャリアと成功の軌跡を、ここから詳しく紐解いていきます。
アルバイトで売上1位
小澤辰矢さんは、生計を立てるためについたガソリンスタンドのアルバイトで、そのたぐいまれな営業手腕を存分に発揮し、社員を含むグループ内の総合順位でトップクラスの成績を収めました。
| 勤務開始時の年齢 | 高校中退後 |
| 給与体系 | 営業の売上に応じた歩合制に初めて出会う |
| 収入 | アルバイトでありながら月収最高約26万円を稼ぐ |
| 総合順位 | 社員も含むグループ内の総合順位で2位を達成 |
| 店舗の状況 | グループ内の店舗で最も給油量が少ない店舗での実績 |
彼は給油のたびにオイル交換や水の添加剤などの営業を積極的に行い、その成果を歩合として得られることに熱中しました。
この時の経験は、後の事業家としての「頑張った分だけ報われる」という価値観の原点となったといえます。
ただし、この「伝説的」な成功を収めたコスモ石油の店舗も、人間関係のトラブルにより1年足らずで去ることとなりました。
高額収入を求め転職を繰り返す
小澤辰矢さんは、東京での厳しい一人暮らしの中で「とにかく稼ぎたい」という強い動機に基づき、短期間で様々な職を転々としました。
そのキャリアは、高収入を求める中で社会の裏側まで深く知る壮絶なものでした。
高校中退後、彼はガソリンスタンドを離れてからも、様々な職業を経験していきます。

特に闇金融の仕事は、当時の求人誌にも「ファイナンス」として掲載されるほど一般的でしたが、小澤さんはこの仕事で「大して稼げなかった」と振り返っています。
人を騙すことに「慣れてしまう」自分に気づきながらも、その仕事では報われなかったことが、彼に「真っ当な仕事」を探すことを決意させました。
この多様な経験が、後の事業経営に必要な度胸や対応力を養う土壌となったのです。
天職となるコンクリート圧送工との出会い
闇金融を辞めた小澤辰矢さんは、19歳の時にハローワークで「一番給料が高い」金銭的な理由だけでコンクリート圧送工の仕事を選び、それが彼の天職となりました。
小澤さんは当初、その仕事が具体的に何をするのかさえ知りませんでしたが、始めてみると仕事の特性が「短気」で「機械好き」な自身の性格に驚くほど合致していることに気づきます。

特に、時間との戦いとなるこの仕事では、彼の短気な性格が「快感」となり、現場を仕切る能力として機能しました。
仕事の没頭は、後の独立と事業拡大の礎となり、コンクリート圧送工としての技術とサービスは、当時もいまも「ピカイチ」と評されています。
独立開業から現在まで
コンクリート圧送工として活躍していた小澤辰矢さんは、歩合制の矛盾から給料が下がるという不満を機に、同僚の言葉に背中を押され24歳(2007年)で独立を決意。
「小澤総業株式会社」を設立しました。
ポンプ車1台から始まった小澤総業は、競合他社が提供しなかった徹底的な顧客サービスと先見の明により、異例のスピードで成長を遂げました。

これらの戦略の結果、小澤総業はわずか数年で東京都内のポンプ車保有台数ナンバーワンとなり、現在はグループ全体で16億円規模に成長しています。
さらに、彼は商品開発者として透水性コンクリート製品「Dotcon(ドットコン)」を開発し、世界的な水害対策市場への参入を目指しています。
小澤さんの最終的な目標は、この事業で得た資金で「日本一の児童養護施設」を設立し、自己の壮絶な過去を社会貢献へと昇華させることなのです。
小澤辰矢の現在の年収や家族構成は?
小澤辰矢さんは、年商16億円を超えるグループ企業を率いる経営者でありながらも、私生活は一般的な成功者のイメージから大きくかけ離れています。
かつては事業で高額な年収を稼いでいた時期がありましたが、現在は社員への還元と事業への投資を最優先する姿勢を徹底しています。
詳しくはコチラ▼の記事もご覧ください。
彼は24歳で独立を果たして以降、業界トップクラスの地位を築き上げるも、自ら手がける新規事業会社であるポンプマン株式会社から得る役員報酬は月額わずか1万円(年間12万円)。
これは、収益の大部分は社員の福利厚生や、事業投資(ドットコン開発など)に回されているからです。
私生活においては、現在の妻と2人の幼い子供、そして義母と共に暮らしており、特に子供との時間を何よりも大切にしています。
小澤さんは「子供といる時間が一番幸せ」だと語り、週末には自らお弁当を作って公園に出かけるなど、多忙な中でも家族との日々の触れ合いを優先しています。
小澤さんの現在の妻について詳しくはコチラ▼の記事もご覧ください。
これは、彼が過去の成功期に派手に散財し、前の家族との関係を疎かにしてしまったという離婚の経験が強く影響しています。
小澤氏の驚くべき年収の変遷や、現在の家族構成について詳しくは別記事にまとめているので、コチラ▼の記事もご覧ください。
まとめ
生後半年で両親が蒸発し、虐待と極貧の幼少期を生き抜いた小澤辰矢さん。
中卒で社会の裏側も経験した彼が、年商16億円規模のグループ企業を築き上げるまでの軌跡は、まさに逆転人生そのものです。
- 壮絶な原体験:義父からの不適切な養育や非行を乗り越え、強烈なハングリー精神を醸成
- 天職との出会い:コンクリート圧送工の「短期決戦」という特性が性格に合致し、才能が開花
- 経営哲学:「断らない営業」とIT戦略で業界トップへ成長し、現在は「社員ファースト」を徹底
- 次なる挑戦:発明家として水害対策に挑み、最終目標である「日本一の児童養護施設」設立を目指す
現在は自身の役員報酬を月1万円に抑え、利益を未来と人への投資に回す小澤さん。
その生き様は、過去の苦しみがすべて現在のエネルギーに変換可能であることを証明しています。
あなたも小澤さんのように逆境を言い訳にせず、今できる目の前の仕事に全力を注ぎ、自分の未来を切り拓く一歩を踏み出してみませんか。


