男子フィギュアスケートの鍵山優真選手と祖母の苗字が違う理由や、その裏に隠されたスケートへの献身的なエピソードをまとめました。
男子フィギュアスケート界のトップスケーター、鍵山優真選手。

鍵山選手を支える家族の絆は有名ですが、祖母の平川佐治子(ひらかわ さちこ)さんの苗字、優真選手やお父さんの正和さんと違うのか、疑問に思ったことはありませんか?
実はその背景には、父・正和コーチを女手一つで育て上げた、壮絶な離婚と献身の物語がありました。
この記事では、月謝3万円の苦労や手作り衣装など、トップスケーターを陰で支え続けた「最強の祖母」の知られざる愛と苦労の歴史に迫ります。
鍵山優真と祖母の苗字が違う理由は「祖父母の離婚」
鍵山優真選手の祖母のお名前は「平川佐治子(ひらかわ さちこ)」さんといいます。

一方で、息子の正和コーチと孫の優真選手は「鍵山(かぎやま)」姓です。
父方の祖母でありながら優真選手と苗字が違う最大の理由は、過去の「離婚」にあります。
正和コーチがまだ幼い頃、佐治子さんは離婚を経験されています。
日本の戸籍法の原則では、離婚によって婚姻時の姓(鍵山)を名乗り続けるか、旧姓(平川)に戻るかを選択できますが、佐治子さんは旧姓である「平川」に戻る道を選びました。

母親が引き取って子どもを育てる場合、子供の苗字も母親と同じにすることが多いですが、正和コーチは父方の「鍵山」姓のまま成長されてるんですね。
これには、正和氏がすでに5歳からスケートを始めていたことから、
- 競技者として「鍵山」の名で活動していた
- 息子のアイデンティティや学校生活への影響を深く配慮した
という理由で、母方の姓である「平川」を名乗らせなかったことが考えられますね。
つまり、「平川」と「鍵山」という違う苗字は、家族の不仲を意味するものでは決してありません。
むしろ、女手一つで息子を育てるという佐治子さんの自立した決意と、どんな状況でも息子のスケート人生を守り抜こうとした、母としての深い愛情の証なのです。
苗字が違っても、そこには形式的な枠組みを超えた、強固な親子の絆が存在していました。
ひとり親で息子・正和を育てた平川佐治子さんの献身
シングルマザーとして正和コーチを育てる日々は、決して平坦な道のりではありませんでした。
「フィギュアスケートはお金がかかる」というのは周知の事実ですが、昭和の時代においてもそれは変わりません。
佐治子さんは、自身の生活を切り詰め、すべての時間と労力を息子の夢に注ぎ込みました。
現在の鍵山優真選手の活躍があるのは、この時代に佐治子さんが「ある覚悟」を決めたからに他なりません。
ここでは、その壮絶な献身のエピソードを紐解いていきます。
月謝3万を続けた経済的苦労と覚悟
正和コーチが本格的に個人レッスンを受け始めた小学生当時、その月謝は「3万円」だったといいます。

今でも「高いな」って思うような月謝ですよね。シングル家庭にとって、かなり覚悟のいる出費だったのは、すぐに想像できますよね。
「普通は4〜5千円くらいだと思っていたので、えっ、こんなにかかるの?と驚きました」と後に朝日新聞の取材で語っているように、当時の物価水準を考えると、これは衝撃的な金額です。
「私がすごくスケートが好きで、やってみたんです。そしたら、こんなに面白いスポーツはないと思って」
正和さんよりも、佐治子さんがのめり込んで一緒に教室に通った。
【引用元】朝日新聞「「普通の少年」が北京五輪へ 鍵山優真、おばあちゃんも驚いた急成長(2022年2月3日 16時00分)」
先生に「この子はいいかもしれない」と正和さんを褒められて、個人レッスンを受けさせ始めた。月謝は3万円。
「お金がかかるなあ」
「普通は月謝って4千円とか5千円だと思うじゃないですか。え、こんなにかかるんだって驚きました」
昭和50年代の大卒初任給が約10〜11万円程度だったことを踏まえると、月謝3万円は現在の貨幣価値で言えば「月6〜7万円」にも相当する重みがあります。
シングルマザーの家計にとって、月収の3分の1近くが習い事一つに消える状況は、本来であれば継続不可能なレベルです。
しかし、佐治子さんは「お金がないから辞めなさい」とは一度も言いませんでした。
実家の母親(優真選手の曾祖母)に援助を頼み、自身も懸命に働きながら、この高額な月謝を払い続けたのです。
「この子の才能を伸ばしたい」という一心で、自分の贅沢は一切せず、生活のすべてをスケート中心に回す。
その経済的な苦労と、それを表に出さずに息子を支え続けた精神力には、言葉にならない母の強さを感じずにはいられません。
数々の手作り衣装に込められた思い
経済的な工夫は、リンクの外でも発揮されました。
フィギュアスケートの華である「衣装」です。
高価なオーダーメイドの衣装を頻繁に作る余裕がなかった佐治子さんは、「買えないなら自分で作る」という道を選びました。
衣装は母が縫い、スパンコールを佐治子さんがつけた。「夜中に一人で作業。それが結構楽しかったんですよ」
【引用元】朝日新聞「「普通の少年」が北京五輪へ 鍵山優真、おばあちゃんも驚いた急成長(2022年2月3日 16時00分)」
仕事や家事を終えた深夜、佐治子さんは一人、正和コーチの衣装を縫い続けました。
きらびやかなスパンコールを一つ一つ手作業で縫い付ける作業は、気の遠くなるような時間を要します。

「息子がリンクで一番輝きますように」っていう祈りを込めて、一針一針ぬっていたんだろうなと思うと、胸にこみ上げるものがありますね。
プロが作った高価な衣装ではなくても、母が夜なべして作ってくれた世界に一着だけの衣装。
それが正和コーチの背中を押し、二度のオリンピック出場という快挙へと導いたのです。
この「愛の手作り精神」は、今の鍵山家の温かいチームワークの原点とも言えるでしょう。
鍵山優真と祖母・平川佐治子さんの現在は?
時が流れ、佐治子さんの献身の対象は、息子から孫の優真選手へと広がりました。
特に2018年、鍵山家を襲った最大の試練において、佐治子さんの存在は再び「家族の守護神」となります。
優真選手が中学3年生の時、コーチであり唯一の親である正和氏が脳出血で倒れたのです。
命の危険すらある大病に、当時15歳の優真選手はどれほどの不安を感じたことでしょう。
その時、すぐに駆けつけて二人を支えたのが佐治子さんでした。
佐治子さんは高齢の身でありながら、麻痺が残る息子のリハビリの世話と、成長期のアスリートである孫の食事や生活のサポートという「二重のケア」を一手に引き受けたのです。
現在も佐治子さんは、鍵山家の精神的支柱として二人を支え続けています。
北京オリンピックで銀メダルを獲得した際、佐治子さんは「よくここまで来ましたね」とデイリースポーツの取材で感慨深げに語りました。
コーチの父正和さん(50)が病に倒れたとき、2人の世話に奔走したのは祖母の平川佐治子さん(73)。「寂しくて不安だったはずなのに、よく頑張ってここまで来た」
【引用元】デイリースポーツ「世話に奔走「よくここまで来た」 初五輪フィギュア鍵山優真の祖母(2022.02.06)」
その言葉の裏には、突然の病でコーチ不在となった危機を、3人で乗り越えてきた自負と安堵が含まれています。
名古屋と横浜で拠点が分かれる時期もありましたが、心の距離は常に密接です。
優真選手が「普通の選手」だった頃から、「絶対にオリンピックに行ける」と信じ献身的に支え続けた祖母・佐治子さん。
その温かいサポートがあるからこそ、優真選手は安心して氷の上に立ち、世界中の人々を魅了する演技ができているのです。
まとめ:親子3代で受け継がれていくスケートへの愛と献身
鍵山優真選手と祖母・平川佐治子さんの苗字が違う理由、それは「祖父母の離婚」という過去によるものでした。
しかし、そこには決して悲観的な物語ではなく、シングルマザーとして息子を、そして孫を支え抜いた、一人の女性の偉大な愛の歴史が存在しました。
月謝3万円の重みも、深夜の衣装作りも、そして病床の父と孫を支えた日々も、すべては今のメダルへと繋がっています。
「鍵山」と「平川」、二つの名前が並ぶことは、困難を乗り越えてきた家族の自立と絆の証とも言えるでしょう。
氷上で輝く鍵山選手の姿を見るたび、その背後には常に、温かく見守る祖母の存在があることを私たちは忘れてはいけません。
この3世代で紡いできた愛と献身の物語こそが、世界を感動させる演技の源泉なのです。


