自民党の参議院議員で小泉チルドレンとしても名をはせた片山さつきさんの家族について、家系図をもとに詳しくひも解いていきます。

片山さつきさんといえば、鋭い発言と行動力で知られる一方、その家族背景にはあまり知られていない深いストーリーがあります。
夫はマルマン創業家の御曹司、実家は学者や官僚を輩出する名門という「ダブルエリート家系」の出身だと聞くと、少し気になりませんか?
この記事では、片山さんの家系図を通してどんな家庭で育ち、マルマン創業家の夫とどこで出会い、人生を歩んできたのかをわかりやすく整理しています。
読み終えるころには、政治家としての強さや信念の源が自然と見えてくるはずです。
片山さつきの家系図と家族構成まとめ
片山さつきさんの家系をひとことで表すなら、「学問と実業、二つのエリート家系が交わる血筋」です。
政治家としての芯の強さや多面的な視点は、この両家の影響を色濃く受けているでしょう。
彼女の人生を形づくる柱は二つあります。
- 片山さん自身が生まれ育った「朝長家・銀林家」という学術・行政の家系
- 現在の夫・片山龍太郎氏を通じてつながる「片山家」という実業家の家系

いずれも日本の近代を支えた知と経済の象徴といえます。
片山さつきさんは二度の結婚を経験しており、最初の夫は元東京都知事の舛添要一さん。
離婚後の1990年に再婚した片山龍太郎さん、ゴルフ用品メーカー「マルマン(現マジェスティ)」の創業家出身です。
政界と財界のエリートが結ばれたことで、彼女の人脈はより多層的なものになりました。
| 氏名 | 関係 | 主な肩書・功績 |
|---|---|---|
| 片山龍太郎 | 夫 | 元マルマン社長、企業再生の専門家 |
| 片山豊 | 義父(夫の父) | マルマン創業者 |
| 朝長康郎 | 父 | 数学者、宇都宮大学名誉教授 |
| 朝長三郎 | 祖父 | 陸軍軍人、近衛騎兵隊長 |
| 銀林綱男 | 曽祖父 | 明治期の埼玉県知事、北越鉄道社長 |
| 舛添要一 | 元夫 | 政治家、元東京都知事 |
一方で、実家もまた輝かしい経歴を誇ります。
父・朝長康郎氏は東京帝大出身の数学者で、宇都宮大学の名誉教授。
祖父の朝長三郎氏は近衛騎兵隊長を務めた軍人であり、曽祖父・銀林綱男氏は明治期に埼玉県知事を務めた人物です。
母方は新潟県の青海神社につながる家柄で、学問と信仰の両面に重きを置く伝統が受け継がれています。
このように、片山さつきさんの家系は「学問」「行政」「実業」が重なる希少な家族構成です。
育った環境と結婚による結びつきが、彼女を「日本のエリート層を象徴する政治家」へと導いてきたのでしょう。
夫はマルマン創業家の御曹司・片山龍太郎
片山さつきさんの夫・片山龍太郎さんは、名家の二代目というだけでなく、実業界で独自の地位を築いた人物です。
マルマン創業家の跡取りとしての責任を果たすだけでなく、自らの知識と経験で企業再生の分野を切り拓いてきました。
政治と経済の両面に通じたパートナーの存在は、片山さつきさんの活動にも大きな支えとなっているでしょう。
夫・片山龍太郎の経歴
片山龍太郎さんは1957年、マルマン(現マジェスティ)創業者・片山豊さんの長男として東京都に生まれました。
慶應義塾高等学校から慶應義塾大学経済学部へ進み、同大学院で修士号を取得。
その後ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得し、世界基準の経営教育を修めています。
1994年には父の後を継ぎマルマンの社長に就任。企業を再建して株式上場を成功させるなど、経営者としての確かな実績を築きました。
さらに2003年には、政府系の「産業再生機構」にマネージングディレクターとして参加。経営危機に陥った大手企業の再生を主導し、その手腕を国内外で高く評価されます。
| 時期 | 所属・役職 | 主な実績 |
|---|---|---|
| 1994年〜 | マルマン株式会社 社長 | 経営再建・株式上場達成 |
| 2003年〜 | 産業再生機構(IRCJ)MD | カネボウ・マツヤデンキ再生を担当 |
| 2006年〜 | ジュリアーニ・パートナーズ日本代表 | 危機管理・経営再編 |
| 2010年〜 | ウィズ・パートナーズ参画 | 投資・M&A事業推進 |
| 2012年〜 | クリスティーズ ジャパン社長 | アート市場の拡大に貢献 |
| 2016年〜現在 | ケイライプ代表取締役 | 経営コンサル・企業顧問 |
その後は、ニューヨーク市長を務めたジュリアーニ氏が設立した「ジュリアーニ・パートナーズ」の日本代表を務め、グローバル企業の危機管理に携わりました。
続いて投資会社ウィズ・パートナーズの立ち上げ、世界的オークション企業クリスティーズ日本法人の社長を歴任するなど、多岐にわたる分野で経営の最前線に立ち続けています。
現在は株式会社ケイライプの代表取締役として事業運営を行いながら、スタートアップ企業の社外取締役や特別顧問としても活動中です。
経営・金融・文化事業を横断する経験を持つ稀有な存在として、今なお注目を集めています。
華麗な学歴と実績を持ちながらも、彼のキャリアは一貫して「再生」と「成長」をテーマにしており、まさに企業再生のスペシャリストといえます。
マルマン(現マジェスティ)との現在の関係
マルマンは片山龍太郎さんの父・片山豊さんが1950年に設立した「日本ゴールドメタル工業株式会社」を前身し、後にゴルフ用品分野で名を広めた企業です。
創業当初は時計バンドやガスライターを製造していましたが、転機となったのはゴルフクラブ事業への参入でした。
高品質なクラブ開発でブランド価値を高め、業界でも一目置かれる存在へと成長します。
なかでも1984年発売の禁煙グッズ「禁煙パイポ」は社会現象となり、「私はこれでタバコをやめました」というCMで全国的に知名度を高めました。
この時期の成功が、マルマン「庶民に愛されるブランド」へ押し上げたのです。
その後、1994年に社長に就任した龍太郎さんのもとで会社は再び転換期を迎えます。
| 年度 | 主な動向 | 経営指標 |
|---|---|---|
| 2002年 | 赤字期(経常損益マイナス) | 経営再建策を開始 |
| 2004年 | 黒字転換 | 経常利益10億円達成 |
| 2005年 | 株式上場(ヘラクレス市場) | 資金調達約45億円 |
| 2020年 | TOBにより上場廃止 | ブランドは継続展開 |
赤字に陥っていた経営を立て直し、2005年には株式上場(IPO)を達成。わずか数年で経常損益を黒字化させ、時価総額は約138億円に達しました。
現在の「マジェスティ ゴルフ株式会社」は、富裕層向けの高級クラブ「MAJESTY」シリーズを中心に、アジア・欧米へ展開を拡大しています。
従業員約130名規模の企業ながら、ブランド力は依然として高く、プレミアム市場で確固たる地位を維持しています。
片山龍太郎さんは現在はマルマン(現マジェスティ)の経営から離れていますが、マルマンとの関係は単なる「創業家の後継」という枠にとどまりません。
創業者の理念を継ぎながらも、現代的なマネジメントを導入して企業価値を高めた彼の手腕は、日本のファミリービジネスが進化する好例といえるでしょう。
片山さつきは実家も超一流!
片山さつきさんの「知的な政治家」という側面は、父・朝長康郎さんに象徴される学者の家系から強く受け継がれたものです。
康郎さんは東京帝国大学を卒業し、宇都宮大学で数学を教えた理学博士。研究一筋の人生を歩み、晩年は名誉教授として後進の育成に尽力しました。
その厳格で論理的な家庭環境が、さつきさんの分析的思考や政策立案力を培ったと考えられます。
朝長家では、学問を「生き方そのもの」として重んじており、家庭内には常に本や論文があふれていたそうです。
子どもが自然と知的好奇心を伸ばせる環境にあったことが、東京大学法学部への現役合格という快挙につながったともいえるでしょう。
一方で、学問の家系にとどまらない多面的な背景も特徴です。
| 世代 | 人物名 | 主な分野・功績 |
|---|---|---|
| 父 | 朝長康郎 | 数学者・宇都宮大学名誉教授 |
| 祖父 | 朝長三郎 | 陸軍軍人・近衛騎兵隊長 |
| 曽祖父 | 銀林綱男 | 明治政府官僚・第6代埼玉県知事 |
| 高祖父 | (名不詳) | 青海神社の宮司 |
| 母方曽祖父母 | 青海神社の家系 | 新潟の名家、神職の家柄 |
祖父の朝長三郎さんは、戦前に近衛騎兵隊長を務めた陸軍軍人。明治期の軍人の中でも高い地位にあり、皇族を護衛する近衛師団の一員として活躍しました。
その血筋は、知性だけでなく統率力と責任感を重んじる家風を形づくっています。
さらに、曽祖父にあたる銀林綱男さんは明治時代の埼玉県知事であり、内務官僚として新政府の行政基盤を築いた人物です。
退官後は北越鉄道の社長として鉄道建設を主導し、地方経済の発展に貢献しました。
家系をさらに遡ると、祖母の実家筋には新潟県糸魚川市の青海神社の宮司を務めた人物がいます。
宗教と学問、そして行政を担ってきた一族の系譜は、まさに「文化と責任の融合」といえるでしょう。
このように、片山さつきさんの実家は、学問・行政・軍事・宗教という日本社会の根幹を担う領域に深く関わってきました。
彼女が政治家として「国家の構造」や「人材育成」を語るとき、その根底には家族が守り続けてきた知の伝統と、公共への献身というDNAが流れているのです。
片山さつきと夫との馴れ初め
片山さつきさんと現在の夫・片山龍太郎さんの出会いは、恋愛よりも「友情」から始まりました。
二人は若い頃から友人として親しく、互いの価値観や考え方を尊重する関係だったといいます。
やがて、片山さんがフランスへ留学し、龍太郎氏がハーバード大学へ渡米。大陸を隔てている間に、当時はSNSもなく連絡が途絶えました。
その間に片山さんは見合い結婚をしますが、価値観の違いからわずか2年で離婚。キャリア女性としての道を模索する中、偶然の再会を果たしたのが龍太郎さんでした。
二人の結婚は単なる再婚ではなく、政財界の重鎮たちから祝福された「再出発」でした。
その証拠として、龍太郎さんとさつきさんの結婚式には錚々たる政治家が出席しています。
| 式の主な参列者 | 役割 | 備考 |
|---|---|---|
| 福田赳夫(元首相) | 主賓 | 片山氏と旧知の間柄 |
| 竹下登(元首相) | 乾杯の音頭 | 夫の実家・片山家の隣人 |
結婚の決め手について、片山さんは「友達から入っているから楽なんです」と語っています。互いの性格をよく知る関係性が、長く続く夫婦生活の土台になったのでしょう。
また、二人には共通点も多く、
といった「対等な関係」が保たれています。
現在、結婚35年目を迎えた二人は、片山さんの政治活動と夫の実業界での経験を支え合う関係を築いています。
キャリアと家庭の両立というテーマの中で、互いを尊重し続ける夫婦の姿は、現代女性の生き方の一つのモデルといえるでしょう。
片山さつきは子どもがいない?
片山さつきさんは、これまでの人生で「母になること」と真剣に向き合ってきました。
彼女に子どもはいませんが、その理由は単に「選ばなかった」のではなく、「望んでも叶わなかった」という深い経験にあります。
38歳から42歳まで不妊治療を受けましたが、子どもを授かることはかなわなかったのです。
片山さつきさんは自身のYouTubeチャンネル「【ジェンダー論争】LGBTQの現状と課題を当事者と語る。カマたく「男女スペースは身体的区分で分けるしかない!」【カマたく】」で、当時の不妊治療のつらさについて率直に語っています。
動画の16分あたりから、片山さんが自身の不妊治療時のホルモン剤の経験を語っていますよ。
「ホルモン剤はきつかった」「4年間やった」と明かしています。
| 時期 | 内容 | 備考 |
|---|---|---|
| 4年間 | 不妊治療に専念 | ホルモン療法・体外受精を実施 |
| 定30代後半〜40代前半 | 着床するも流産を繰り返す | 「涙が涸れるまで泣いた」と語る |
| 医師の判断 | 最終手段は代理出産 | 夫婦で話し合い治療を断念 |
ホルモン治療による身体的負担、度重なる流産の精神的ショック、その苦悩は計り知れないものでした。
片山さんが不妊治療で感じた絶望を、美STのインタビューでも語っています。
残された手段は代理出産しかないと宣告されて夫婦で話し合い、保守的かもしれないけれど、やめることにしたのです。
美ST「片山さつきさんからのメッセージ「何もかもできなくていい。何かができればいい」<後編>」より
涙が涸れ果てるまで泣いて、子どものいる人生を諦めました。
その代わり、子どもを残せない分、ますます仕事をして、世のため人のためになる法律や制度を残そうと決意。その気持ちは今も変わりません。
しかし、その経験はやがて政治家としての使命感へと昇華していきます。
彼女は、「自分の子を残せないなら、社会に制度を残す」と考えるようになったのです。
以降、不妊治療の保険適用や女性のキャリア支援など、医療とライフデザインを結びつけた政策提言を積極的に行っています。
自身の不妊治療の経験を「個人的な失敗」として終わらせず、同じ苦しみを抱える女性たちへの希望に変えた姿勢は、多くの支持を集めています。
この経験を通じて、片山さつきさんは「命の重さ」「制度の必要性」「女性の生き方」という3つのテーマに真摯に向き合ってきました。
子どもを持てなかったことは悲しみであると同時に、政治家として社会を育てる力へと変わった、それが、彼女が今も精力的に活動を続ける原動力なのです。
まとめ
片山さつきさんの人生には、学問と実業の血筋、努力と再生の物語が重なっています。
家系・結婚・キャリアのすべてが「エリート」といえるでしょう。
| 区分 | 人物 | 特徴・功績 |
|---|---|---|
| 父系 | 朝長康郎・銀林綱男 | 数学者・行政の系譜 |
| 夫側 | 片山龍太郎・片山豊 | マルマン創業系・実業の象徴 |
| 家庭 | 子どもはいない | 不妊治療経験を政策へ昇華 |
こうして見ると、片山さつきさんの生き方は「家族に支えられ、家族のように社会を支える」という循環そのものです。
- 家系の基盤:数学者の父と軍人・官僚の祖先をもつ知の家系に育った。
- 夫との結びつき:マルマン創業家の夫・片山龍太郎さんと再婚し、政財界の両輪を支える存在に。夫は企業再生のプロとして国際的に活躍している。
- 母になれなかった経験:4年間の不妊治療を経て、子どもを持てなかった悲しみを政策提言の力に変えた。
彼女が歩んだ道は、「個人の悲しみを社会の力へ変える」という現代の女性リーダー像を体現しています。
社会を変えるのは特別な人だけではありません。あなた自身の経験も、誰かの希望に変えられるはずです。


